暴れゴリラ2忍法帖

現役女子高生未亡人が日々を綴ります

私と彼

ゴールデンウィークの退屈を紛らわす散歩の最中、「自分を客観視する自分」の存在を久しぶりに感じた。

彼は大学生くらいのことは常に私の傍らにいたような気がするのだが、いつの間にかスッカリご無沙汰であった。

久しぶりに再会して、「そういえばこんな奴もいたなぁ」と感慨深い気分になる。

 

昔は、彼が私という体の支配権を握っていたように思う。

彼が状況を判断し、どういう行動をとるのが適切なのかを選択し、それを体が実行するという具合だった。

それはさながら、ゲーム内の主人公と、ゲーム外のプレイヤーの関係に似ていたと思う。

 

思えば、彼は私が一人の時にしか姿を現さなかった。

それゆえに、私は彼のことを孤独の象徴のようにとらえており、あまりいい印象は抱いていなかった。

しかし、久しぶりに再会した今、彼の存在は私にとってかけがえのないものだったという気がしてならない。

私は、今度こそ彼と仲良くやっていきたいと強く感じている。

 

なぜ彼は久しくその存在を消していたのであろうか?

彼は私が何も考えずに歩いているときなどによく現れた。

彼が現れると、外界とのインタラクションが途絶されて、頭脳のみが働いているような感覚に陥る。

思考にすべてのリソースを振った状態こそが彼の正体なのかもしれない。

最近彼が現れなかったのは、様々な不安やストレスにリソースが食われていて、思考に割くリソースがなかったということか。

 

そう考えると、彼が再び顕現したのは私にとって吉報だ。

自由に使えるリソースが増えたということであるし、私を取り巻いていたストレスが解消されつつあるということなのだから。

 

彼という存在の正体が掴めた今なら、彼とよりよい関係を築くことが可能になったと思う。

思考に特化したいときは彼を呼び出すようにすればいいのだ。

試しに仕事中に彼を呼び出したらデキパキとタスクを整理してくれた。

やはり頼りになる。

 

ただし、人から話しかけられると途端に彼は霧散してしまった。

会話はリソースを食う行為であるため、彼を維持できるだけのリソースを確保できなくなるからだろう。

と、ここまで書いて気づいたが、「彼」などと大仰に表現しているが、これってただの「集中力」というやつなのでは?

やっぱり人が知覚できる存在には大抵の場合きちんとした名前がついているものなのだな、と思った。